日本にブルーベリーが導入されたのは高度経済成長期がはじまる1951年、昭和26年の頃。当時の農林水産省北海道農業試験場が、アメリカからハイブッシュブルーベリーを導入したのがはじまりです。
いっぽう温暖な地に対応するラビットアイブルーベリーは、1962年(昭和37年)に東京農工業大学農学部にて研究がはじまりました。
のちに「日本のブルーベリーの父」といわれる岩垣駛夫(いわがきはやお)先生が同大学に着任し、品種特性、受粉、結実、繁殖に関する基礎研究を行いました。
現在も東京農工大学農学部構内には、日本で最も古い大株のブルーベリーが育っています。
日本初のブルーベリー農園誕生
これが、民間でのブルーベリー経済栽培のはじまりとなり、日本発のブルーベリー農園「島村ブルーベリー園」が東京都小平市に誕生しました。
島村ブルーベリー園では、ラビットアイ系品種のティフブルーの栽培に熱心で次第に栽培技術の頂点をきわめていきます。それは、今でも岩垣先生の「ブルーベリーは加工原料ではなくフルーツだ。輸入ブルーベリーに負けない“本物”を作ろう」という信念が深く受け継がれているといいます。
北部ハイブッシュ系の復活
1971年(昭和46年)からブルーベリーを栽培している長野県信濃町にある「伊藤ブルーベリー農園」。ここが北部ハイブッシュ系ブルーベリー園としては日本初の農園です。
伊藤農園は標高650m~750mの寒冷地。土壌は通気性にすぐれた火山灰土壌で、北部ハイブッシュ系ブルーベリーに適した酸性です。しかし、冬期間の積雪は多く、1株ごとの雪囲いが必要な環境下にありました。
日本のブルーベリー史上、重要なポジションを占めることとなった長野県には、その要にもなった種苗会社「小町園」が存在します。
小町園では長野県でのブルーベリー栽培のノウハウを広く伝える為に「ブルーベリー栽培の手引き」という生産者向けの冊子を制作しています(1977年刊行)。これはブルーベリーを解説した民間初の印刷物となり、わずか10数ページのなかに、「土地の準備」から「栽植」「灌水」「剪定」「繁殖」「収穫」「鳥害」「害虫」「病害」などに関する内容と、携わったブルーベリー13品種が解説してあります。各品種の解説は4~5行ほどですが、的確に捉えた内容だったといいます。
当時、ブルーベリーの研究は長野果樹試験場と東京農工大学が、試作は伊藤ブルーベリー農園が、そして、正確な品種の見極めと繁殖は小町園が行うなど連携がなされていました。
その成果が着々とあらわれ、ブルベリー栽培は東北へと広がっていくことになります。
東北のブルーベリー栽培のスタート
東北でのブルーベリー栽培は岩手大学農学部 滝沢農場が深く貢献しています。
じつは、1952年に農林省特産課が導入したブルーベリーは北海道農林試験場のみならず、ここ盛岡市も試作地になっていましたが、民家への普及は全く進んでいませんでした。
その後、10年後の1962年に農林省果樹試験場盛岡支場が設立された際に、10数品種のブルーベリーが定植されましたが、やはり民間への普及はなりませんでした。
そして1975年(昭和50年)に岩手大学農学部に新設された果樹園芸学講座が、東北地方のブルーベリー栽培の大きなきっかけとなりました。
翌年、長野園芸試験場から横田清氏が赴任となり、後輩の小池氏が50本のブルーベリー苗木を寄贈。その苗木が東北のブルーベリー栽培の基礎となりました。
その数年の間、東北はひどい冷害に見舞われ、農業だけではなく全体が暗い雰囲気に包まれている中、ブルーベリーだけは、毎年健全に成長し実をつけました。そういったことから、冷害対策作物としてのブルーベリーに着目し、1980年に一関市で公開講座を開催。それをきっかけにして研究会が発足され、徐々に生産量も上がり、東北地方ではじめてのブルーベリー農家が誕生したのです。
そして1984年に階差された公開講座では、岩手県内だけでなく東北各県から180名にも及ぶ参加者がありました。これを契機に青森県南郷村や中里町、山形県羽黒町、宮城県若柳町、秋田県本状氏など、現在の東北地方の主な産地が誕生していったのです。
なかでも山形県鶴岡市羽黒町の鈴木農園は、東京ドーム2.5個ぶんの広さに10000本を誇る日本最大規模のブルーベリー農園です。ここでは、バーク堆肥とピートモスなどの有機肥料を土深くまでたっぷりと与えたふかふかの土作り、奥深くまでしっかりと根を張った頼もしい生命力の根、夏でも水やリは不要の栽培方法が育んだ糖度の高いブルーベリーが栽培されています。
農園にはもぎとりを楽しむ観光エリアもあり、農場内はいくらでも食べ放題!つみたてを思う存分お楽しみいただけます。
参考文献:渡辺順司著.「ブルーベリー大図鑑 品種読本」.マルモ出版,P.299-306.